本書の補足として
本書のテーマであるパンデミック条項について深く考える中で、私はある重要なことを見落としていました。それは「都議選」の存在です。政治の流れを追う際に、都議選という地方選挙のタイミングが、実は大きな意味を持っていることに気づかなかったのです。
パンデミック条項の動きと都議選、そして間もなく控える参院選。この三つが重なり合う今の状況は偶然でしょうか?
本書では主に条項の内容とその影響に焦点を当てましたが、このブログでは、政治の実際の動きと世論の空気、その狭間にある見えにくい仕掛けについて補足として考察します。
政治は単なる制度や法律だけで動くものではありません。時には「空気」や「タイミング」が大きな力となり、私たちの未来を左右します。
都議選の静けさ、その裏で進むパンデミック条項の採択、そして参院選に向けた政治的な動き。これらをつなげて考えることで、より立体的に今の日本の状況が見えてきます。
本書の理解を深め、現実の動きに敏感に反応するための一助として、このブログが役立てば幸いです。
第1章:なぜ誰も語らない?
誰もが知っている違和感
──矛盾だらけの「沈黙」が意味するもの
決定と沈黙
2024年春。WHOによるパンデミック条項(パンデミック協定とIHR改定)への動きに対し、日本国内でも一定の反応があった。特に4月には、全国で複数回にわたり抗議デモが実施され、SNSでは拡散された翻訳資料やリスク解説に対し、多くの国民が「これは本当に大丈夫なのか?」と警戒感をあらわにした。
デモでは「パンデミック条項にNOを」「主権を守れ」と書かれたプラカードが掲げられ、実際に足を運んだ人々は数百~千人規模に達した地域もあった。特定の政治団体に属さない市民の参加も多く、これは「陰謀論」というラベルでは説明しきれない、明確な“拒否感”の表れだった。
──だが、奇妙なことが起きた。
5月20日、パンデミック条項がWHO総会で採択された。
これは本来なら、4月以上に強い反発や再度の抗議行動が起きてもおかしくない事態だ。だが、この日は全国的に静まり返っていた。 一部のSNS上では「決まってしまった…」「やっぱり何もできなかったか」という諦めにも近い呟きが流れたものの、目立ったデモや集会は確認されず、メディアも主要政党も、まるで「何も起きていないかのように」振る舞った。
この落差は何を意味するのか?
一つには「情報が遮断された」という面がある。メディアではほとんど報じられず、政党も国会もこの話題に触れようとしない。結果として、「何が起きているのか」が一般国民に正確に伝わらなかった。
もう一つは、心理的な反動だ。4月の行動で“声を上げた”人々が、5月には「それでも決まってしまった」という無力感を味わい、意図的に距離を取った可能性がある。怒りや不安は、出口を失うと沈黙に変わる。これは冷静さではなく、集団的な“諦め”である。
──つまり、今「パンデミック条項は問題ではない」とされているのではない。「問題視することすら無力である」という空気が、社会全体に覆い被さっているのだ。
もしくは──これは「決意」の表れなのかもしれない。
声を上げても変わらなかった。ならば、次こそは絶対に見誤らない。そう心に刻みながら、人々は今、静かに準備を始めている。
情報を集め、身の回りを整え、仲間と連絡を取り合う。誰にも悟られないように、しかし確実に「何か」に備え始めている。かつてのようにデモやSNSで大きく動くのではない。それは、もう“無駄”だと知ってしまったからだ。
──いま、街に広がっているのは「静かな怒り」だ。それは表面からは決して見えない。
だが次の爆発が来たとき、誰ももう黙ってはいないだろう。
だからこそ、私たちはこの“沈黙”を「無関心」だと見誤ってはいけない。
むしろこの沈黙こそが、パンデミック条項という“現代の踏み絵”に対する本当の答えなのかもしれない。
この空気を見て、政治家たちは何を思ったか。
「今、この話題を持ち出せば、自分が燃えるだけだ」
「陰謀論に近づくリスクを負うより、黙っていた方がいい」
この計算の結果が、「全員の沈黙」である。そしてその沈黙こそが、最大の演出となっている。
パンデミック条項だけ、なぜか静か
メディアは語らない。政治家も語らない。だが、それでも“おかしい”と感じている人は、確実に増えている。
4月には人々が声を上げた。ところが5月に可決された時には一斉に沈黙した。「何も変わらなかった」と落胆するには、あまりに静かすぎる。そしてこの静寂はただの無関心では説明がつかない。
ここには“矛盾”がある。
- 世界ではすでに多くの専門家や国会議員がパンデミック条項に懸念を示している。
- 国内では、4月に明確な反対デモが起きていた。
- 5月に可決されてもなお、その内容を取り上げたテレビ番組や新聞はごくわずか
これほどの国際的インパクトを持つ問題が、まるで「何事もなかったかのように」扱われている。にもかかわらず、人々はこの沈黙を受け入れてしまっている。誰かが口火を切るのを待ちながら、誰も口を開こうとはしない。まるで、そこに“触れてはいけないタブー”があるかのように。
──これは意図的な空気づくりなのか?
それとも、恐怖の“同調圧力”なのか?
いずれにせよ、ここにあるのは集団的な自己検閲であり社会全体が“本音を飲み込む”フェーズに入っているという事実だ。表現の自由がある国で「自由に話せない空気」がここまで広がっている。
それはすでに言論の自由が“機能していない”という証拠でもある。
いや…
単に「言論の自由が機能していない」という一言で済ませるには、あまりにも矛盾が多すぎる。
- 法的に言論統制が敷かれたわけでもない。
- 完全に諦めたようにも見えない。
- 今の日本は、政治への関心がかつてなく高まっている。
- SNSでは切り抜き動画や政治家の発言が瞬時に拡散されている。
- 自民党に対するデモすら現実に行われている。
──それなのに、パンデミック条項に関しては誰一人、声をあげない。不満も、怒号も、追及もない。
この沈黙は、何を意味しているのだろうか?
第2章:都議選ってもうすぐだよね?
都議選はもうすぐ。だが、話題はなぜか広がらない。この不自然な静けさには、“準備している者たち”の存在が見え隠れする。
都議選スルーは作戦?爆発は参院選で。
2025年、都議選は参院選のおよそ1ヶ月前に予定されている。
この時期設定は、ただのスケジュール調整ではない。都心という「情報の交差点」に火がつけば、それは一気に全国へと飛び火する──その意味で、都議選は「導火線」としての役割を果たす可能性がある。
だが今、この導火線に誰も火をつけようとしない。
不自然な静けさが続いている。通常であれば、参院選を前にして各党は“争点づくり”に躍起になる時期だ。とりわけ都議選は、国政選挙の直前に行われる「世論の予行演習」として重視される。
それなのに、パンデミック条項のような国の根幹を揺るがす議題が存在するにもかかわらず、それに触れようとする政党も、候補者も、ほとんど見当たらない。理由は明確だ。今、無理に火をつければ、燃えるのは政党自身だからだ。
一歩間違えれば陰謀論のレッテルを貼られ、メディアに潰される。あるいは、問題提起が早すぎれば、かえって人々の“熱”が選挙本番までに冷めてしまう。
──そうした政治的リスクを、どの陣営も冷静に計算している。
だからこそ、今はあえて火をつけない。誰もがギリギリまで引きつけ「最大瞬間風速」を本番に持ち越す戦略をとっている。その結果として生まれているのが、今の“沈黙”だ。
だが、この沈黙は無関心ではない。都議選を皮切りに、空気は確実に動き出す。
そしてその空気が一気に加速するのが、参院選…
──爆発の本番である。
票が欲しいなら触れるはず
都議選が「静かに通過」していく様は、単なる関心の低下では説明しきれない。むしろ、“静かであること”自体が前提で設計されているように見える。
まるで火薬庫の蓋を一時的に閉じて、爆発のタイミングを「参院選直前」に合わせようとしているかのようだ。何かを隠しているわけでもなく、むしろ“後で出す”という意志すら感じられる。それが今の「都議選スルー」である。
情報が出ていないのではない。あえて出さず、“爆発前の沈黙”を保っている──。
その沈黙の正体は、「起爆タイミングを参院選前に設定した上で、都議選では動かない」という“取引”のようにも見える。この構図の背後にあるのは、「参院選で何を問うか」を明確にさせたい勢力の存在だ。彼らにとって、都議選は“スルーすべき”であり、騒がれるべきはその次なのだ。
では、もしあなたが都議選に立候補するとしたら──
まず何を最優先に考えるでしょうか?
そう、「票の確保」です。そのために必要なのは、何よりも“国民の共感”を得ること。ところが今この国には、あまりにもわかりやすい「共感の種」が転がっているにもかかわらず、なぜかそれに触れようとしない候補者たちがほとんどです。
なぜなのか?私には国民感情に火をつけるような話題が都議選では“意図的に避けられている”ように見えるのです。
交差する圧力
2025年夏、日本は二つの圧力にさらされる。経済と医療、主権を揺るがす交差点。
試される日本に交差する圧力
2025年4月、世界がざわつき始めた。
アメリカではトランプ大統領が「関税カード」の強化を宣言し、対中だけでなく対日関税の見直しにも踏み込んだ。その際に言及されたのが「90日の猶予」
──つまり7月1日前後に日本がどの立場を取るのかを見極める“査定日”とも言えるタイミングとなっている
これは一部の経済紙で短く報じられたが、世論の話題にはほとんど上がっていない。なぜこの重要な日付の意味に、誰も焦点を当てようとしないのだろうか?
少し早いがほぼ同時期にWHOによる「パンデミック条項(パンデミック協定・IHR改定)」が採択されていた。こちらも主権にかかわる重大案件だが、メディアも政界もそろって沈黙している。そして奇妙なことに2つの“主権を揺さぶる圧力”が重なっている。なのに誰も声をあげない、あげたとしてもそれはごくわずかな小さな声だ。
私はこの現象が不気味に思えてしまう。
──経済と医療、安全保障と情報統制、まったく別の文脈から発せられた「圧力」が、同じタイミングで交差している。にもかかわらず、それを指摘する声はほとんど聞こえてこない。なぜか。
もしかすると、これは“あえて”注目を外されているのかもしれない。関税発動のタイミング、WHOの動向、都議選・参院選の空気…それらを同時に把握されては困る“誰か”がいるのではないか?
つまり「7月1日」のトランプ関税は偶然ではない。私はそう思えてしまう。日本にとって、“主権”という見えにくいカードが二方向から同時に試される分岐点になりつつある。
- WHOの判断に従う国になるのか
- アメリカに選ばれる“戦略的パートナー”でいられるのか
- それとも両方に従い“従うだけの国”になるのか
今の空気の中で、これらの問いに真正面から向き合っているメディアも政党も見当たらない。
だが私たちは、そろそろ気づかなければならない。この「日付の一致」は偶然ではなく国際構造の変化が、日本という“試される存在”に圧をかけてきているサインなのだと。
従属か抵抗か
「偶然だ」と片付けるには、あまりに“揃いすぎている”。
まず、WHOによるパンデミック条項(パンデミック協定およびIHR改定)は、形式上は「各国の合意による国際的な感染症対策強化」とされている。しかしその実態は、感染症に関する“緊急事態宣言”の判断権を各国からWHO(とその背後にある枠組み)へと委譲する流れだ。言い換えれば、「主権の一部を越境的な枠組みに差し出す」という方向性である。
一方アメリカではトランプ大統領が「関税カード」の強化を宣言し、同盟国を含む全世界への関税強化を打ち出した。「90日間の猶予」を設けたこの発言は、7月1日前後を“査定日”として日本にも突きつけている。そして、その根底にあるのもまた「主権」の問題だ。関税をめぐる交渉では「アメリカにとって都合のいいパートナー」であるか否かが判断の基準になる。
──ここで2つの動きの「本質」が重なる。
- WHOは「世界基準への順応」を各国に求める。
- トランプは「アメリカ基準への忠誠」を同盟国に求める。
いずれも「従う国」には恩恵と安定を“逆らう国”には排除と制裁をもたらす構造になっている。今の日本にとって、どちらか一方に“逆らう”という選択肢は極めて取りづらい。形式上は独立国家であっても、実質的には“選ばれ続ける属国”としての振る舞おうとしている。
7月1日前後にこれらの圧力が交差するというのは、単なる偶然ではない。どちらの圧力も“同じタイミングで世界を測ろうとしている”ように見える。しかも、これらの動きに対して日本のメディアも政界も口をつぐんでいる――まるで「察して従う」ことこそが、最善の外交であるかのように。
しかし、それで本当に“守れる主権”とは言えるのか?声をあげることをやめた時点で、私たちは何を手放してしまったのか?この不可視の構造的リンクに、そろそろ目を向けるべき時が来ている。
沈黙と圧力が重なるこの“一致”が偶然か、それとも設計された必然なのか――
問いの重みは、日に日に増している。
恐怖は演出される
恐怖は突発的に生まれたのではない。
“仕掛けられた空気”が、私たちを動かしていた。
演出される恐怖
2025年グローバル陣営は明確な“焦り”を見せ始めている。
その理由は一つ──トランプがすでに行動を起こし始めているからだ。
4月トランプは「関税の90日猶予」という具体的な外交圧力を発表し、アメリカに従わない国々に対して“選別”の姿勢を明らかにした。これは単なる経済カードではない。「誰が味方かを見極める査定」が、すでに始まっているということだ。
対するグローバル陣営にとって最大の懸念はこれまで中立や静観を保っていた国々が、次々とトランプ側に傾いていくことである。特に日本のような“従順だが揺らぎやすい国”に対して確実に自陣営に引き込む“決定打”が必要になっている。
そこで持ち出されるのが、感染症という【空気を一変させるツール】である。
感染症は、以下のようなきわめて強力な心理的演出効果を持つ。
- 政府による統制の正当化
- 情報統制や緊急対応の常態化
- 国民意識を“内向き”に切り替える装置
これは戦争や経済制裁と違って表向きは「安全のため」として容易に正当化できる。しかもメディアや医療機関を通じて「専門的な裏付け」を得られるため、抵抗も起こりづらい。
今グローバル陣営が本気で日本、そして世界を繋ぎとめたいのであれば「感染症の演出」はもっとも自然で効果的な手段となる。
- トランプの影響力が迫る前に
- 国際イベントが注目される今この時期に
- メディアが空気を一気に変えられる“導火線”として
感染症という“演出”をどこでどう使うか――
それが、彼らにとっての外交ツールであり情報戦の武器になっている。
ベストな舞台
今、グローバル陣営が本気で日本、そして世界を繋ぎとめたいのであれば「感染症の演出」はもっとも自然で効果的な手段となる。だが、それは“どこ”で、どのように“仕掛ける”のがベストなのか?
この問いを考えるには、「演出」の目的を整理する必要がある。目的は単なる混乱の創出ではない。“空気”を変えることだ。つまり、「見えない危機」を可視化し感情・世論・政策の方向性を一斉に塗り替えるような「劇場」が必要になる。
そのためには、次の条件を満たす“舞台”が効果的だ。
感染症の“見せ場”候補
感染症の演出は“見せる”ことが第一だ。それゆえ、世界中がカメラを向けている場所、SNSで話題になりやすいイベントが狙われやすい。
たとえば──
- 大阪・関西万博(2025年)
- クラブワールドカップ(日本開催)
- パリ・ローランギャロス(全仏オープン)
いずれも国際的関心が高く報道も過熱しやすい。特に万博やW杯は「多国籍来訪者×大衆の興奮×混雑」の三拍子が揃っており、“感染症”の言説を乗せやすい構造を持つ。
政策誘導のステージ
演出が「政策誘導」へと進化するには、行政の対応が必須となる。そのため、地元政府や自治体が国際イベントの運営に関与している地域は格好の舞台となる。
国内で言えば「大阪」はその筆頭。
大阪は万博を行うと同時に都構想以来“国際都市化”への路線を歩んできた地域でもある。
正義で縛られる場所
もっとも巧妙な演出は、自由を制限しても市民が納得してしまう状況の構築である。「感染症対策のため」という名目で移動・行動・言論が再び制御されても国際イベントなら大義名分が立つ。
逆にそれを拒否する者は「空気が読めない人」や「危険思想の持ち主」にされてしまうリスクがある。
この構造が、もっとも深い“空気づくり”の罠なのだ。
演出の本番はここ
感染症の演出が現実に仕掛けられるなら、それは人目につかない“現場”ではない。むしろ人々の感情が最も揺れ動く“舞台”こそが、最大の演出効果を持つのだ。
その先に待つのは…
- 空気の変化
- 政策の変化
そして“選択肢を失う国民”という現実かもしれない。
涙のカード
「感染症の演出」を行うとして、どこに焦点を当てれば、社会の空気を一気に変えられるのか?
その問いに対して最も効果的で“空気を変える”力を持つのが、妊婦と子供である──
そんな“冷たい戦略ロジック”が存在するとしたら?
誰も逆らえない
高齢者は確かにリスク層だが社会的にはすでに免疫ができている。しかし妊婦や小さな子供が被害に遭うとなれば話は別だ。
- SNSで一気に拡散される
- テレビやネットニュースが「泣く母親」を映す
- 「未来の命が危ない」と言われれば、誰も逆らえない
それは「理屈ではなく感情」で世論が動く瞬間だ。この“演出効果”は極めて大きい。
保護から管理へ
妊婦や子供の健康被害が前面に出ると、以下のような政策が正当化されやすくなる
- 学校や保育施設への一斉介入(検査、ワクチン、空調設備など)
- 妊婦への「専用支援パッケージ」(その実データ収集や追跡管理)
- 公共空間の利用制限(妊婦・子連れ向けの優先施策)
これらはすべて「守るため」の名目で行われるが、同時に監視や制御の入り口となりうる。つまり、「誰も反対できない対象」を使えば誰も逆らえない仕組みを構築しやすくなるのだ。
空気で従わせる
さらに巧妙なのは、妊婦や子供に直接関係のない人々までもが「間接的な加害者」とされてしまう構造である。たとえば──
「若者がマスクをしないから感染が広がった」
「無症状の人がウイルスを持ち歩いた」
「妊婦や子供が犠牲になったのは、社会全体の油断のせい」
こうして加害者の輪郭があいまいな“道徳的空気が生まれる。そして、その空気の中で人々は“従順な行動”を選ばされていく。
冷静な仮説
ここで述べているのはあくまで「仮定のロジック」である。しかし、過去のパンデミックの中でも、
- 妊婦の優先接種
- 子供のワクチン問題
- 「学校が感染拡大の拠点」という言説
は、繰り返し使われてきた。この構造を知った上で、私たちは次に何が“狙われるのか”を冷静に想像しなければならない。
選ばぬ民と微笑む影
人々が選ぶことをやめた時、選ばれる側は笑い始める。
票は恐怖の風に流れる
「空気が変われば、票も変わる。」
それは、戦略を扱う者にとって常識のような感覚である。だからこそ、“感染症”という名の爆弾は選挙の「後」ではなく、必ず「前」に爆発させなければならないのだ。
理性より空気
選挙とは国民一人ひとりが「未来を選ぶ」場である。そして未来の選択には希望よりも不安のほうが強く作用する。感染症が広がり始めた時、人々の頭の中はこう切り替わる。
「誰が経済を伸ばすか」ではなく「誰がこの不安から守ってくれるか」
つまり選挙前に恐怖を演出できれば政策や過去の実績よりも、“空気を読んだ対応”ができる人物が選ばれやすくなる。これは民主主義の構造そのものを逆手に取る極めて冷静な作戦だ。
統制なき沈黙
感染症は事実としての病よりも“空気の病”として社会を変える。
テレビでは「協力が必要です」というナレーションが流れSNSでは「今それ言う?」という空気が蔓延する。その空気の中では、冷静な批判や対立候補の主張は「邪魔者」扱いされてしまう。
「今は団結の時だ。政争なんてしてる場合じゃない」
こうして“空気”が選挙戦を黙らせていく。実際には統制でも命令でもない。ただ“雰囲気”によって人は自ら口を閉ざしていく。これは、選挙という「自由な議論の場」を封じる最も自然なやり方だ。
失点より行動アピール
恐怖が蔓延した時、政府は“動く姿”を見せることで支持を集めやすくなる。
検査体制の強化、マスクの配布、緊急会見──
これらの演出は、「私たちは仕事をしている」という可視化されたメッセージとなり“今動いてくれている人”を支持したいという心理が生まれる。これにより、どれだけ失点があっても「とりあえず今の政権を維持しよう」という空気が生まれる。
つまり、感染症の爆弾を選挙の直前に落とせば、“空気による保守化”が自然に進行するのだ。
正論が判断力を奪う
本来、選挙とは過去の実績と未来の構想を比較し、冷静に選ぶ場であるはずだ。しかし、社会全体が「感情の非常事態」に突入すれば、冷静な判断は次第に後回しになる。
「今は政治なんかより、命の方が大事だ」
その言葉は一見、正論に見える。だが裏を返せば、それは政治的選択から人々を遠ざけ、ただ“安心感”に縋る票を量産する装置でもある。
それこそが“爆弾”を選挙前に仕掛ける最大の理由なのである。
思考停止が支配を完成させる
社会にとって最も危険なのは、「怒り」ではありません。それは、“あきらめ”です。
「どうせ何を言っても無駄だ」
「結局、守ってくれるのは自分だけ」
「もう考えるのは疲れた」
こうして人々の中にじわじわと広がるのは思考停止と諦めの空気。それは火を上げて怒るよりも、ずっと静かで、ずっと深い絶望です。この空気が社会に蔓延すると人々は選ぶことすら放棄し、ただ「流れに従う」ようになります。
本来、選挙は「選ぶ」ことそのものに意味があるはずでした。しかし、恐怖が社会を覆い、“国に見捨てられた”という無力感が広がると、冷静な判断は霧のように消えていきます。
そして人々はこうつぶやき始めます。
「誰でもいい、もう面倒だし、とりあえずやってくれる人で」
「考えても仕方ないし、今のままでいいよ」
「文句を言っても変わらないし、なるようになれ」
その時本当の意味で“民主主義”は終わりを迎えるのです。
なぜなら、選ばれるのはもはや「最も優れたリーダー」ではなく「最も空気をコントロールできる存在」になるからです。
そしてこのタイミングを、最も喜ぶ者たちがいます。
それは、テレビにもSNSにも現れない、“影の存在”──
空気の流れを操作し、意図的に希望と怒りを冷やし込み、思考を眠らせる側にいる者たちです。
彼らは怒号ではなく、「沈黙」こそを求めます。なぜなら、何も語られず、何も問われず、ただ“現状維持”が続くことこそが、支配にとって最も都合がいいからです。
つまり“国に見捨てられた”という感覚を選挙の前に植えつけ人々の心を“あきらめ”という名の氷で包み込むことこそが、この国の“支配構造を崩さずに勝つ”ための最大の作戦なのです。
静けさという罠
静けさは平和の証ではなく、思考停止への静かな誘導である。
無風支配
報道が静まり返っている──。
それは本来、安心のサインであるはずだ。だが今の日本における“静けさ”は、むしろ異常である。
日々、不安材料には事欠かない。経済の停滞、食料価格の高騰、世界的な緊張、そして国内の社会不安。それなのに、テレビは「日常」ばかりを映し出し、ワイドショーは芸能とグルメと「気になる便利グッズ」の話題をループする。まるで「嵐の前の退屈な日常」を人為的に演出しているかのようだ。
静けさは罠である
これは「報道しない自由」の話ではない。今のメディアは、あえて騒がず、あえて煽らず、**“何も起きていないフリ”**をしている。
なぜか?
答えは簡単だ。“考えさせない”ためである。
情報を出しすぎれば人々は調べ、比較し、思考を始める。だが、情報を枯渇させれば、人は退屈する。そして退屈が続けばやがて“思考を諦める”。
まさに、“静かな思考停止”への誘導だ。
これは、情報過多による混乱よりも遥かに巧妙な戦術である。怒らせず、考えさせず、ただ日常に溺れさせる。
無風の圧力
この不自然な静けさの中で、人々は無意識のうちに「空気」で判断を始める。
- みんな不安がってないから大丈夫だろう
- テレビがやってないってことは深刻じゃないんだろう
- 周りが騒いでないから何もしなくていいか
…これは思考ではなく、同調である。
そして、同調が重なることで巨大な“無風の圧力”が生まれる。
誰もが何かを感じているのに、誰も言葉にしない──その状態こそ、空気による支配の完成形だ。
爆発前の静寂
この“静けさ”には、明確な意図がある。
・ある時点で爆発的に話題が切り替わる
・突如、非常事態が宣言される
・選挙や法改正に向けた“緊急の空気”が演出される
その時、人々は思考が止まったまま、ただ“空気”に飲み込まれていく。
これは不安や混乱で煽るタイプのメディア操作とは異なる。
あくまで「静けさ」を通して、“判断を放棄させる”ことが狙いなのだ。
眠りにつく前に
つまり、今メディアが見せている「静けさ」は安心の証ではない。むしろ、それは嵐のための布石であり人々の思考を眠らせる罠なのだ。
テレビが静かであればあるほど、SNSが表面的な話題ばかりであればあるほど
──私たちは、いま“何か”の準備をさせられているのかもしれない。
無風の中の炎
今、爆発前の“最後の余白”に私たちは立っている。
静かで、何も起きていないように見える。ニュースは明るい話題を繰り返し、SNSは小さな炎上を消費しては忘れていく。人々は日常をこなし、学校では運動会の練習があり、街では普段通りにアイスクリームが売れている。
けれど、空気はどこかおかしい。
誰も何も言わないのに、全員が何かを感じている。誰も声を上げていないのに、どこかに焦りがあり、警戒がある。目には見えないけれど、皮膚の奥で何かがうごめいているような、そんな奇妙な“圧力”が街全体を包んでいる。
この静けさは、ただの安心の証ではない。むしろ、これまでの嵐が去ったわけでもなく、次の嵐が来ないわけでもない。“誰か”が仕組んだ、嵐のための“無風時間”。思考を止め、判断を遅らせるための麻酔のようなもの。
この静けさに対して「もう何を言っても無駄だ」「どうせ何も変わらない」という諦めにも似た言葉が、人々の口から漏れることがある。それは一見、無関心や絶望に見えるかもしれない。だが、私は違う感情を感じている。
それは――怒りだ。
表面には出てこない。でも、確かに存在している。歯を食いしばるように、拳を握りしめるように、誰にも届かない心の奥で怒りが眠っている。
諦めとは違う。諦めは、すでに感情を失っている。だが今の日本人の目の奥には、まだ熱がある。言葉にならない怒り、行き場のない怒り。だけど、それをどう使えばいいかわからずに、やがて内側で腐り始めている。
この状態が続けば、本当に思考は眠りに落ちる。怒りは炎ではなく、黙ったまま濁る泥になる。そうなる前に、私たちは気づかなくてはならない。この静けさが“嵐の中の無風”であり、そして今が“最後の余白”なのだということに。
この一瞬に思考する力を取り戻せなければ、次に来るのは選択すらできない未来だ。
祝祭と管理のはざまで
華やかな祝祭の裏で、静かに進む管理の罠
──これは自然か計画か?
見えないサイン
私たちは今「すべてが整いすぎている」この日常の裏側で、もしかすると、小さな異変を見逃しているのかもしれません。
最近、メディアでは時折、百日咳や子ども特有の感染症についての報道を目にするようになりました。「流行の兆し」「地域で発生」といった言葉が使われていますが、どこか引っかかるものがあります。
たとえば百日咳の話題。ニュースでその名を聞いたとき、ふと考えたのです。どうして、もっと安心感を与える伝え方ができないのだろうか?
「百日咳」という名前だけを見ると、まるで深刻な病のように感じてしまいます。実際、それがどんな症状で、どの程度のリスクがあるのかを知らなければ、ただ漠然とした不安だけが心に残るのも無理はありません。
本来なら「こういう人は注意してください」「こうすれば大丈夫です」といった落ち着いた説明や、安心につながる情報を届けることもできるはずです。それなのに、なぜか突き放されたような温度のない報道が多いと感じてしまうのです。
結果として残るのは、
「怖いけど、よくわからない」「何か変だけど、調べる気力もわかない」
そんな、静かで不思議な不安感だけ。
軽い不調が、ずっと続く
実は私の長女も、元々鼻炎気味な体質でした。けれど今年に入ってからの鼻炎は明らかにおかしいのです。治りが遅く、何週間経ってもすっきりせず「また?」と感じるほど繰り返し、軽い不調が続いています。
病院では「ハウスダストアレルギーの可能性が高い」と言われました。確かにそれもあるかもしれません。でもだったらなぜ、今年に限ってここまで長引くのか?本人も大きく体調を崩しているわけではないけれど、ずっと“万全”ではない──
そんな微妙な違和感が、親としてはどうしても気になります。
これはただの気のせいでしょうか?それとも──。
最近どう?
これは、私の家庭だけのことかもしれません。でもSNSや育児ブログを見ていると、どこか似たような違和感を口にする人もいるように感じます。
- 「風邪でもないのに咳がずっと続いている」
- 「微熱が何日も続いて、でも病院では“問題なし”と言われた」
- 「妊婦なのにだるさが抜けない。検査では異常なしだけど、不安だけは消えない」
もちろん、すべてが偶然の重なりかもしれません。けれど言葉にできない体の変化を感じているのは、きっと私だけではないのかも──
そんな“気配”のようなものを、最近特に感じるようになりました。
はじまりは生活の中に
感染症は、流行の前に「兆し」として家庭に現れます。それは病院のデータやメディアの報道ではなく生活の中にある違和感です。
「なんとなく変だな」
「うちの子、こんなに長引く体質だったっけ?」
「体は元気そうなのに、どこかすっきりしない」
──そんな、他人から見れば取るに足らないような感覚。でも親や身近な人だからこそ気づける“最初のサインなのです。
整いすぎた今こそ
今テレビもネットもこの話題をほとんど扱っていません。でもそれは「何もないから」ではなく、むしろ「何かが始まっているのに、まだ表に出てきていない」からかもしれません。
“すべてが整って見える今”こそ、小さな異変に耳を澄まさなければならないのだと私は思います。
報道が減ったのは偶然?
今、日本ではあまり語られていない話題があります。それは、「トランプ関税」の再開です。
2025年の7月1日頃──
アメリカが再び経済制裁に動き出すかもしれない。けれど、その話を今このタイミングで思い出せる人は、どれくらいいるでしょうか。もっと言えば、「今、意識している人」は、いったい何人いるのでしょうか。
ネットを見ても、テレビを見ても、この話題はほとんど出てきません。でも、それは「何も起きていないから」ではないのかもしれません。むしろ何かが起きようとしているのに、まだ“表に出されていない”だけ──
そんな気がしてならないのです。
かつてトランプ政権は、中国をはじめとする国々に強硬な関税政策を打ち出しました。
今回はそれに“再び火がつく”と一部では予想されています。
しかも、前回と違って今の世界経済は非常に不安定で、何かが引き金になれば一気に崩れてしまう可能性すらある。
つまり、これは「また関税か…」という軽い話ではないのです。
経済制裁は、一見遠い国の話に見えるかもしれません。でも実際には、私たちの買う食料品や日用品、エネルギー価格、さらには中小企業の仕事にもじわじわと影響してくる。
「なぜ、もっとこの話題が出てこないの?」
「なぜ、“静かすぎる”の?」
それは、もしかすると何かを先に察知した人たちがもう準備を始めているからかもしれません。
だからこそ、一般の私たちにはあえて大きく伝えないのかもしれない。
でももしこの文章にたどり着いたあなたが、「何かがおかしい」と感じているなら──
それは見えないサインに気づいている証かもしれません。静かで整った日常の中で、耳を澄ませてみてください。“あえて語られない話題”にこそ、これからの鍵が隠されているのです。
祝祭の皮をかぶった実験場
2025年、大阪・関西万博がついに始まりました。
でも、そのタイミングで「パンデミック条項」の採択が行われたことを知っている人は、どれほどいるでしょうか?この“偶然”のような一致は、果たして本当に偶然なのでしょうか。
WHOによるパンデミック条項の採択──
それは、国家の判断よりも国際機関の勧告が優先される未来の入り口とも言われています。そして同時期に始まったのが、「未来社会の実験場」とも称される大阪万博。
会場では、最新のテクノロジーや“持続可能性”がテーマに掲げられています。医療・AI・バイオ・環境。まるで、これからの統治の枠組みを先取りするような内容が並びます。
このタイミング、この空気感──。
「新しいルールをつくる場所」としての万博が、静かにスタートしているのです。でも、ここに違和感はありませんか?万博はお祭りのはずなのに、どこか管理されたような、テーマパークのような空気をまとっている。パンデミック条項と万博。この2つが“同じ空間”にあることの意味。
それは私たちが知らぬ間に次の社会構造の“試運転”に巻き込まれているのかもしれない──
という静かだけれど重大なサインなのかもしれません。
全部たまたま?選挙直前の不自然さ
日常があまりにも静かに流れていく。
今、日本では驚くほど多くの“重大な話題”が立て続けに起きています。パンデミック条項、トランプ関税、報道されない異変たち──。
けれど奇妙なことに「国政選挙」そのものが、まるで霞んで見えるのです。
いいえ、逆…
だからこそ、不自然なほどに際立っている。本当は隠したかったのに、わざと無理やり押し出しように矛盾が多すぎる。あまりにも「国政選挙前」にしては話題が多すぎる。そして、そのどれもが選挙とまったく関係がないかのように、個別の事件として処理されていく。
本当にそれでいいのでしょうか?
今回の参院選は、「いつも通り」では済まされないかもしれません。水面下では、これまでの日本を揺るがすような再編や選別が進んでいる可能性があるからです。
大切なのは「どの政党が勝つか」ではなく「どの勢力が勝てないことで、何が加速するか」選挙は終わりではなく、きっかけです。結果が出たその日から、日本の道筋が一つ、決まっていく。投票行動は、違和感を言語化するひとつの手段。だからこそ、静けさに呑まれず、小さな感覚を見逃さずに。
今回の選挙は「気づけるかどうか」がすべてかもしれません。
まとめ:本書の補足としての現実の“気づき”
今回のブログは、本書の内容を補完する形で、パンデミック条項と政治のタイミングにまつわる“空気”の流れについて考察しました。
本書では主に条項そのものの意味や影響を解説していますが、実際の政治現場では「都議選」「参院選」というタイミングが重なり合い、その間に“静かな圧力”が確実に進行しています。
政治の動きは、制度や法律だけでは語り尽くせません。
国民の意識や世論の“空気”、そして選挙直前の「恐怖」の演出が、次の未来を大きく左右してしまうのです。
特に都議選の静けさは、単なる偶然の無関心や沈黙ではなく、計算された“準備期間”である可能性が高いと私は考えています。
本書とあわせて、このブログで伝えた“タイミングの妙”に気づくことが、今後の日本を見極める重要な視点になるはずです。
何よりも大切なのは、私たち一人ひとりが「静けさに呑まれずに気づくこと」――。
そこから考え、行動を始めなければ、未来はただ流されるままになってしまいます。
本書が読者の皆さまの思考のきっかけになれば幸いです。
そしてこのブログが、現実の「今」を捉え直す一助となれば嬉しく思います。
※この記事は特定の政党や団体、個人を否定していません。あくまでも個人の考察となっています。
ポンポロより
ここからはAIを使わないで執筆しています。
たくさん怖いことを書きましたが、基本心配性のポンポロの妄想です^^
ただ、本の中で書いたパンデミック条項で「都議選」の事をすっかりと忘れてしまったので「やっちゃった〜」のノリで今回はおまけみたいな感じでブログを作成しました♪
よく見落としちゃうんですよね^^;
また気になる事があれば、ブログに補足情報を書いていきますね〜
あ!大事な事です!
特定の誰かを攻撃する意思は全くありません!これは不安症のポンポロの個人の考察ですので、そのことはご理解ご承知くださいね^^