米不足に怒る前に考えたいこと
最近、「米が高い」「米が足りない」「またJAか」「政治が悪い」──そんな声があちこちで聞こえてきます。
確かに、お米の価格は上がっています。品薄感を感じる場面もあります。
買い物のたびにため息が出るのも、無理はありません。
けれど、少し立ち止まって考えてみてほしいのです。
私たちの怒りは、もしかすると“本当の原因”から少しずれてしまっているかもしれません。
少しずつ壊れる安心に気づいて
「これは偶然とは思えない」「背景に“意図された動き”があるようにも見える」
…そんな考えが浮かんでくるのは、生活に余裕がなくなってきた証かもしれません。
本来、お米は日本人にとって「安心」の象徴でした。 米さえあれば食卓は成立する。
家族がなんとか生きていける──そんな感覚がありました。
それが今、崩れつつある。
それは、誰かのせいというよりも、「社会全体が“気づかないまま壊れている”」という現象かもしれません。
怒りの奥の違和感、見逃さないで
もちろん、JAにも課題はあります。
政治にも、農政にも、透明性の欠如や鈍い対応はあります。
でも、それだけを責めて終わってしまえば、私たちはずっと「怒らされ続ける側」になります。
・なぜお米が高くなったのか? ・なぜ農家が減っているのか? ・なぜ輸入や転売が進むのか?
それらを“冷静に見つめる目”こそ、今必要なのです。
怒りの中にある“違和感”を、手放さずに見つめていく。 それが、「米を守る第一歩」になると私は信じています。
米の値札が問いかける“今”
スーパーで手に取った米袋が高くて戻された。 実家に帰ったら、母が「最近はご飯よりパンの方が安い」と言った。 そんな日常の一場面が、実は「国家の変化」を映しているかもしれないと、どれだけの人が気づいているでしょうか。
お米が高くなることは、単なる“物価の問題”ではありません。 それは、「国の文化」「生き方」「経済の優先順位」が揺れている証拠です。
私たちが見落としているのは「お米の背景にある仕組みや思想」です。 たとえば──
- 収穫量ではなく“市場価格”に合わせて作付けが制限される現実
- 農家が高齢化し、後継者が減り、耕作地が放置されていく背景
- 一方で、外国産の安価な食材が“効率”という言葉で大量に流入してくる構造
お米は「ただの主食」ではありません。 お米をどう扱うかは、その国が「自分たちの生活をどう守るか」の姿勢そのものです。
この国は、今どこを見ているのか? 未来のために、どこを守るのか?
それが、お米の棚から静かに問いかけられているのです。
私が違和感に気づいたとき
私がこの異変に気づいたのは、2024年の秋ごろでした。
それ以前の2023年頃から、お米の価格はじわじわと上がり始めていましたが、 私自身はそこまで違和感を抱いていませんでした。
2024年の春になっても、お米の価格は下がるどころか、むしろ高止まりしたまま。 「今年の新米はどうなるんだろう?」と不安を感じながら過ごしていました。
そして秋。 いつもなら少しは値下がりするはずのお米が、むしろ値上がっていることに気づきました。 「これは本当に異常だ」と、はじめて確信めいた違和感を持ったのです。
そして2025年春── 備蓄米の放出というニュースを見て、私の中で点と点が線になりました。
これは偶然ではない、 何かが“仕組まれている”のではないかと。
そのときから「お米」という一見ささやかな主食が、 実は私たちの社会構造や精神にまでつながっている「鏡」なのだと、 本気で思うようになりました。
お米が減る“本当の理由”とは?
お米が減っている理由として、よく挙げられるのが次の3つです。
- 収穫量ではなく“市場価格”に合わせて作付けが制限される現実
- 農家が高齢化し、後継者が減り、耕作地が放置されていく背景
- 外国産の安価な食材が“効率”という言葉で大量に流入してくる構造
これらは表向きの要因として納得できますが、私にはどうしても、それだけには思えません。
なぜなら、外国に日本のお米が過剰に出回っている事実があるからです。
そして、もし本当にこの“米不足”が意図的なものであるとすれば、そこには3つの狙いがあると考えています。
① 国民を“怒らせる”ため
日本人は、領土問題や政治的な駆け引きよりも、食の問題に敏感です。 特に「米」は生活の象徴であり、そこに不満が生じると一気に怒りが高まる傾向があります。 政府があえて無償で外国に支援している姿を見せることで、「なぜ自分たちが我慢して、他国に米を配るのか?」という怒りを引き出しているように見えます。
② 政治不信をあえて煽るため
炎上商法と同じ理屈です。 問題に目を向けさせ、わざと「無能」や「不正」を演出することで、 人々に政治そのものに対する強い反発を持たせようとしている可能性があります。 その先に、「今の政治を変えよう」という流れを自然に生み出す意図があるのかもしれません。
③ 世界の“日本化”の布石として
近年、外国人観光客が日本に来る目的の多くが「食」であることに気づいたのは、2024年の秋でした。 観光よりも、ショッピングよりも、「日本の食文化」に惹かれているのです。
つまり、これは「文化輸出」の一環なのではないか。
海外でお米を無償提供しているのは、いわば「初回無料お試し体験」。 一度その味に慣れさせれば、日本のお米を定期的に買いたくなる。
その先にあるのは、日本文化全体への“味覚依存”と、 「日本ブランド」としての農業の再評価です。
結果的に、若者が農業に目を向ける流れや、地方の再生へとつながっていく── そんなシナリオがあるのではないかと感じています。
誰かのせいにしても、何も変わらない
誰かのせいにしたくなる気持ちは、きっと誰にでもあります。 それだけ私たちは日々の暮らしで“守られる感覚”を失っているということです。
でも、たとえ誰かが意図していたとしても、たとえ政治が無策だったとしても、 本当に変えなければいけないのは「仕組みそのもの」だと感じています。
私たちが抱える「不安の根」は、 お米という一つの問題を超えて、 もっと深い“依存と無関心”の構造にあるのかもしれません。
いつしか私たちは、「誰かがやってくれる」ことに慣れてしまい、「本当は自分で考えなければならないこと」から目をそらしてきた。
いま必要なのは「敵」を見つけることではなく「どうすれば守れるか」を一人ひとりが問い直すことだと思います。
怒りよりも、静かに守る力を
怒っても、叫んでも、世界はそう簡単には変わりません。
怒りが届かないこの時代に、私たちは「静かに守る力」を取り戻す必要があります。
それは、例えば──
- 地元の農家から米を買うこと
- 少しずつでも備蓄を始めること
- 子どもたちに食の背景を伝えること
- 政策や制度に関心を持ち、選挙に行くこと
こうした積み重ねは、すぐには世界を変えません。 でも「米を守る意思」を持った人が増えれば、 それはやがて“構造そのもの”を揺るがします。
私たちが「食べる」という行為に込める意思が、 次の時代の“生き方”をつくっていくと信じています。
まとめ
米不足を通じて私たちが向き合わなければならないのは、 「誰が悪いか」ではなく「私たちはどう生きたいのか」という問いです。
お米はただの主食ではありません。 それは日々の暮らしの土台であり、文化の象徴であり、家族の営みの中心です。
そのお米が静かに消えつつある今こそ、 私たちは「選ぶ」必要があります。
怒りに流されるのか、 それとも気づきを未来につなげるのか。
行動は小さくてもかまいません。 でも、その小さな一歩が、次の時代の価値を決めていくのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ポンポロより
ここからはAIの力を借りずに筆者から思いを綴ります。
お米…本当に高くなりましたよね(T . T)
私が子供の頃は、生活が苦しくても米だけはお腹いっぱい食べられる。そんな環境でした。なのに、今はお米が贅沢品になっている現実があります。
私は、どうしても物事を深く考えてしまう癖がついていて、今回のことも様々な意見を見て色々と考えてしまいました。
その結果強く感じたのが、通販でよくやる「初回無料キャンペーン」にしか感じなかったのです。
私は今の政治を見ていて政治不信になると言うよりも「あまりにも不自然な政治」に目がいってしまいます。
だって、どう考えても可笑しいじゃないですか、これが単純に本当に他国に日本を捧げるのなら、こんなに大々的にメディアで流れること自体が可笑しいです。
SNS規制が進んでいる一方で一部の情報が広く拡散されている状況に、逆に違和感を覚えています。
もしかすると、今の状況は“意図的に生まれている”可能性もあるのでは…と感じてしまいます。
で、そうなると一体何が目的なのか?ですが、日本食って美味しいじゃないですか…それが母国の食事よりも美味しくて、帰国した後も食べたいって感じるのは自然じゃありませんか?
すると次に起きる行動は自分の住んでいる地域に日本食レストランがあるかを探す事、そしてなければ自力で調理する事です。
と、なれば日本食に欠かせないお米って外国でも需要が増えると思いませんか?
つまり今は「食の輸出化の初期段階」って訳です。
これで需要が増えれば日本食レストラン、つまり「日本企業の日本食レストラン」が海外に出店しやすくなります。
車やアニメの他に日本独自の産業の出来上がりっと^^
食は世界に密接なので、日本に親近感が湧く事は火を見るよりも明らかですね〜